神が細部に宿らない時代

理研の今回の発表の「隠し玉」と言われている「Nature」以外への論文提出は、実はこの研究の業界では当たり前に行われていることで、どれかが当たればいいかな、というやり方を当然しているものと思います。同時期にではなく、時期をずらしても、同じことだと思います。

既に理研のこの発表の後に、小保方さん側からの反論も出ていて、こちらもかなり説得力があります。

いずれにしても、理研は組織としてこれから小保方さんを手放すことになります。STAP細胞関連研究は、研究者としてよりも、役所のサラリーマンとしての保身によって理研ではタブーの1つとなる、という感じがします。おそらく、STAP細胞以外の同種の研究もまた、この研究所では扱うことが忌避される可能性が高い。それが日本のサラリーマンの社会の「空気を読む」ことですから。

現在世界では将来年間50兆円という売上を用意できる、という、iPS細胞、Muse細胞、STAP細胞などの研究を核としているという「再生医療」の研究に、多くの労力とお金が注ぎ込まれています。理研はこの分野で数歩は確実に後退することを余儀なくされるでしょう。しかも、表で私達が聞くこれらの「幹細胞に係る研究」は、これらの他にも、数十から数百以上の研究があると言われています。これらが世界で競争している。そこにはリスクもあるし、足の引っ張り合いも、ウソもきっとあるんじゃないかと思います。

これまでも、理研だけでもいくつか見つかっているように、これまで研究者がこういった「不正すれすれ」あるいは見方を変えれば「不正」とされかねないようなことをした、という事例は実はたくさんあります。これをすべてなくすことは不可能でしょう。なぜならば、そのコストがかかりすぎ、世界的な研究の「競争」に勝てなくなるからです。

細かいところを見れば問題が多いのは、かなりの研究分野でそのとおりであると思いますが、特にバイオ系の研究分野はあらを探せばいくらでも出てきそうだな、というのは、私も同じような研究所にいたから、よくわかります。でも、その研究や社会的混沌の中から、「結果オーライ」のものを引っ張りだす、ということがけっこう多いのがこの研究分野だ、というと言い過ぎでしょうか?でも、私はITの世界から行ったので「こんなことでいいのか?」と思うことはたくさんありました。それでも「結果」を出すことが第一であって、実際結果は出ているのです。

つまり、事実として、そういう混沌の中から、この分野の研究成果はけっこう多く上がっている。クラスタ化された多数のPCをスーパーコンピュータのように使って人間のDNA解読で有名になったクレイグ・ベンターなども「The surfer turned scientist(サーファーあがりの研究者)」と言われていたし(実際にサーファーだった)、もともと変な人だったようです。

両方の社会を知る私にとっては、「役人の世界」と「研究の世界」の「水と油」が喧嘩を始めるとしたら、バイオの分野だろうな、と、前から思っていました。そしてそれは今回の騒動で現実になりました。

そして、小保方さんの「研究ノート」はどうでしょうか?「ノート」はあくまで「ノート」。それは他人のためではなく、もともと自分のための記録。加えて、笹川氏も言っていましたが、「ノートにはすべて書かれているわけではなく、PCにだってもっと情報はあるだろう」ということ。私も、もともとIT関係ですが、自分の研究のときはノートの書き方で研究の内容は決まりませんでした。ようするに「私的記録」であって、そこになにが書かれているか、ということのほうが大きな問題なのですが、それは専門の研究者とか本人にしかわからないことです。かたちだけを見て勝手に解釈は、やはりできないところじゃないかと、個人的には思いますが。

このように「なにが大切か」を忘れた日本の公的な研究所からは、多くのバイオ研究のタネが失われていくことでしょう。と、私はこの騒動を遠くから眺めていて思うのです。日本の役人の世界の細かいところまでの厳格さ。そして、それが普通だと思っている日本の多くの人たち。やがて、精緻なレンガ積みのように厳格なこの「日本の社会」が、こういった「攻撃」で、脆くも崩れていくところを、私達はここ数年で数多く見ることになるのかも知れません。

「神は細部に宿る」。それはこれまでの日本の社会です。日本の社会はそういうものを積み上げてきて発展しました。製造業が中心の世界だったし、役人の組織を大事にしてきた社会だったからです。しかし、これから世界的に「細部に宿る神」のチカラはどんどんなくなっていく、そういう世界になりつつあるのだと、いろいろな国を見て来た私は思っています。それがなぜなのか、ということを書くと長くなるので、ここではそういう世界が日本の周囲を取り巻いているのだ、ということだけを指摘しておきます。

小保方さんは日本から離れて、ハーバードに行く可能性は高いでしょうし、こういう研究は既に「国」を単位として行われているものではないですから、その成果がどこの国に帰属しようと、それはどうでもいいことなのだと思います。日本では役所的な「形式論理」で物事を見ることが当たり前のような「空気」があります。しかし、それは正しいでしょうか?形式論理として正しくても、それが良い結果を産むでしょうか?本当はそこが大切なことなのではないでしょうか?

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